兄が午後イチくらいに帰ってきました。
母は最初は帰ってくるまで起きてると言ってたのですが、「ダメだ、お尻が痛い、ガマン出来ないから横になりたい」と言い出し、「だってもうすぐお兄ちゃん帰ってくるよ?」と言ったら「帰ってきたらベッドの方で話するからいいよ」と。なので早めのお昼を食べたあといつものようにベッドへ連れていきました。
私や父はそのあとお昼を食べました。私はチーズやハムなどがあったのでピザトーストにして食べてました。
離乳食を食べさせたり、麦茶を飲ませたりしてたチビちゃんも兄が帰ってくるまではとハイローチェアに座らせたままリビングに。時々ギャン泣きしていたのはきっと早くになりたいということだったんだろうか。それとも麦茶じゃ腹がふくらまないということだったんだろうか(笑)
13時頃、ようやく兄が帰ってきて、チビちゃんの顔を見て、チビちゃんもまたもや泣きだしたので、とりあえず寝室へ連れていきました。パパがそばにいるから大丈夫かなと思って、兄のそばへ。「お母さんね、さっきまでは起きてたんだけどお尻が痛いって言ってベッドで横になってるから行ってあげて」と二人で和室の方へ。
しばらく母と兄はそこで談笑していたけれど、今度は父がリビングで一人になっちゃうので、私が父の方へ。テレビは高校野球です(笑)
14時過ぎに、寝室でチビちゃんにラコールを飲ませていたら、うち近辺で土砂降りが。雨戸を閉めに行きたいのにチビちゃんに飲ませているから身動き出来ないでいたら、パパが「すげー雨だよ」と言いに来たので「ゴメン、下行って、雨戸閉めてきてくれる?お父さんは外から閉めようとするから、中からも閉められるって言っといて」と言っておきました。それにしてもかなりの土砂降りでした。いつ以来だろうなぁ。
チビちゃんに飲ませ終わってからリビングに行ったら、兄が「お母さんがそろそろ起こして、って言ってたよ」と。なので和室に行って、オムツ交換をしてから車椅子に乗せて、リビングへ。ようやく顔がそろったかな、という感じ。
テレビは高校野球を見ながら、庭の植物の話とか、来月は母のお兄さんの一周忌の法要があるからそのことについてとか色々と話をしていました。私は時々チビちゃんの様子を見に寝室に行ったり。
兄は夕飯は食べないで帰るというので、チビちゃんをいつもよりは早めに下へ連れていき、ソファで寝かせておきました。兄も目を細めて「可愛いなぁ~」と言ってくれました。18時頃には「じゃあまた来るからね」と言って帰っていきました。
実家なんだからもっと帰ってくりゃいいのにねぇ。
日本航空123便墜落事故から30年。私自身にはあまり深い関わりは無いのだけども、当時はまだ中学生であり、テレビのニュースで見て「うわ、ひどいな、飛行機はコワいな」と思ったような記憶がありました。これによって坂本九さんが亡くなられた、というのが一番印象に残っていることだったかもしれません。
いまだに飛行機の事故というのは無くなるものではないですけど、飛行機に限らず、電車だの車だの船だの乗り物の事故は必ずしも自分には関係ないものだというわけではないということは頭のどこかにあります。不慮の事故に遭ってしまったら、たぶんそれが自分の寿命なんだろうなと思うことにしています。お昼のテレビ番組で特集をやっており、乗客の一人であったある男性が自分の持っているメモ帳にその時の状況や家族への感謝の言葉を書いていて、自分の死期がせまっている時というのはどんなに苦しくて悲しくて悔しかったことだろうな、とせつなくなりました。そして残された家族へのメッセージをとにかく残そうとした気持ちを思うととても立派な最期だったのだなと思うのです。飛行機事故は今後、まったく無くなるということは無いだろうけど、出来るだけ少なくあって欲しいなと思いました。
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当時の日本航空をモデルとし、社内からの視点で描かれています。
これは当事故の報道における地元新聞社の苦悩を描いた作品です。